お父さんはサーバント: 細かすぎて市役所の中の人たちにしか伝わらない物語を書き続ける ③

 

 前回からの続き。

 

お父さんはサーバント: 細かすぎて市役所の中の人たちにしか伝わらない物語を書き続ける ②

 

現況:

 「鈴石が東京大学卒という設定の方が面白いんじゃないか?」という意見があって、それもそうだなと変更。「都市整備部長が葛城ミサトみたいな職員だったら素敵じゃないか?」と思って、エヴァ風に書き進めてみる。草川補佐が謎多き人物になってしまったが、そのまま進める。

 

奥さんが出産後に天に旅立って、一人でお子さんを育てた市役所の男性職員さんの話はリアルな場所でお聞きしたことがある。その時の衝撃で泣いてしまったことがあったので、大切なエピソードとして物語の中心に残しておく。再婚後のストーリーは、別の街に住んでいた頃に耳にした実話。

 


 

※ この物語に登場する人物、機関、担当課などの設定は、あくまでフィクションです。実際の市長や副市長、市役所の職員さんたちとは関係がありません。

 

登場人物の発言は実際の市職員の意見ではありません。「市役所の人たちの気持ちって、たぶん、こんな感じかな...」と地域住民が想像しているだけにすぎません。

 

ストーリーの中に、実際に行政が公開しているオープンデータを用いることがありますが、その場合にはその旨を記載します。浦安市のことに関心があれば、市のウェブサイトなどで確認してください。 

 


第五話: 例の計画


 

台風上陸前に浦安カーで市内をパトロールしている道路整備課の草川課長補佐と鈴石主任。

 

草川: さて、私たちを含めて、職員による市内のパトロールが一段落したようだな。そろそろ市庁舎に戻ろう。

 

鈴石: 承知しました。

 

草川: ああ、すまないが、その前に、少しだけ美浜東エステートの方をまわってもらえないだろうか? そう、美浜北小学校の近くだよ。着替えを取りに行きたいんだ。しばらくの間、自宅に帰ることができないかもしれないから。

 

鈴石: 市役所から近いとはいえ、陸橋を越えるのはなかなか大変ですからね。

 

草川: まあ、仕方のないことだが、浦安が一つになりきれない理由が、この陸橋だと思いはするな。

 

鈴石: ・・・・

 

草川: 過去に公用車が駐禁を取られたことがあるそうだから、路駐はやめよう。そうだな...そこの駐車場に停めてくれるか?その場所は団地の自治会で仲の良い老夫婦のスペースで、何かあれば使っていいと言ってもらっているから。

 

鈴石: はい、それでは、私はここで待っていますね。

 

草川: すまない。

 

鈴石: ・・・・

 

鈴石: ・・・・

 

鈴石: ・・・・(草川さんが団地から出てくるぞ。奥さんも一緒なのか。)

 

草川の妻: いつも主人がお世話になっております。

 

鈴石: い、いえ、私の方がお世話になっておりまして。本当にありがとうございます。

 

草川: 待たせたな。妻がどうしても夜食を持って行けとうるさくてな。じゃあ、行こう。バタンッ

 

鈴石: はい。

 

草川: ・・・・

 

鈴石: 素敵な奥さんですね。

 

草川: ああ、私にはもったいないくらいの素晴らしい人だ。

 

鈴石: そういえば、草川さんって、お子さんがおられましたよね。

 

草川: まあ、これでも二人の男の子たちの父親だ。上の子は高校生で、そろそろ大学入試だから、男の子と呼ぶのもアレだな。

 

鈴石: うちは一人目が産まれたばかりです...本当に子育ては大変ですね。課の皆さんからお祝いを頂いてしまって、本当にありがたいです。

 

草川: 君を見ていると、若い頃の自分を思い出すよ。

 

鈴石: 草川さんって、若い頃から良きパパだったんでしょうね。今のお姿を見てもそう思いますよ。

 

草川: どうだろうな...当時は必死だったから、あまり記憶が残っていないんだよ...ん? スマホに着信だな。「はい、草川です。ああ、大城部長。はい、そうですか...分かりました。今から市役所に戻ります。」

 

鈴石: ・・・・

 

草川: 鈴石君、都市整備部長の大城さんから連絡があった。市長から例の計画が指示されたそうだ! 忙しくなるぞ!

 

鈴石: 例の計画...ええっ!? 本当に準備していたんですか!?

 

草川: もちろんだ。君の緻密な事業計画書、何度も読ませてもらったよ。この窮地を脱するには、このプロジェクトしか残っていない。 

 

鈴石: 信じられない...そんな、君島と適当に話していた時に思いついた水害対策なのに...

 

草川: 浦安市は、23区よりも先にハイブリッドクラウドを立ち上げたような自治体だぞ。職員の夢を形にすることができる場だ。

 

鈴石: しかし、勢いがありすぎですよ...市庁舎に着きました。

 

草川: よし、先を急ごう。道路整備課を含めて都市整備部に作業服を着た職員が集まっているな。おお、気合の入った良い表情だ。さて、大型台風の上陸は明朝の8時。現時刻は夕方の18時...そろそろだな。

 

鈴石:・・・・

 

秘書課長: (庁舎内のアナウンス)「これより、市長から各職員にお言葉があります。」

 

市長: 「皆さん。大型の台風の上陸に備えて頑張ってくれて、本当にありがとう。忙しいだろうから、仕事を続けながらで構わないので、少しだけ私の話を聞いてください。」

 

草川: ・・・・

 

鈴石: ・・・・

 

市長: 「皆さんは、浦安市職員として働いています。市役所はどこにあるか、言わなくても分かりますね。浦安市の猫実(ねこざね)地区にあります。すでに聞き飽きたかもしれませんが、浦安の歴史は、水害との戦いの歴史でもあります。」

 

草川: ・・・・

 

鈴石: ・・・・

 

市長: 「その昔、浦安に大きな水害が発生し、大変なダメージを受けました。その後、豊受神社の付近に立派な堤防が完成した際、堤防の上に松の木を植え、この松の根を波浪が越すことがない『根越さね』と皆で喜んだことが、猫実の地名の由来であるといわれています。」

 

草川: ・・・・

 

鈴石: ・・・・

 

市長: 「人は何をもって幸せを感じるのか。様々なことに幸せがあると思いますが、普段と変わらない穏やかで平凡な日常を送ること、それは大切な幸せの要素です。私たち行政に携わる人たちは、その平凡な日常を守らねばなりません。しかし、それは簡単なように思えて、とても大変なことです。」

 

草川: ・・・・

 

鈴石: ・・・・

 

市長: 「根越さねと安心した古の浦安の民の気持ちを、そして、今、安心を望む市民の皆さんの気持ちを胸に、私たちは街を守り続ける使命があります。一人ひとりの力は小さくても、一人ひとりが役目を果たせば、この事態を乗り越えられると信じます。あなたたちには、その力があります。」

 

草川: ・・・・

 

鈴石: ・・・・

 

市長: 「国や県に比べると、私たちの力は小さいです。しかし、私たちには街を守る者としての矜持があります。限られた予算と人員の中で、市の情報部門と都市整備部門が連携したプロジェクトを準備してきました。そして、今、そのプロジェクトを発動することにします。計画書はまわってこなかったと思いますが、皆さんはすでに日常の業務において十分な準備を続けてきました。何ら迷うことなく、自分たちの力を信じて業務にあたってください。最終的な責任は私がとります。以上です。」

 

鈴石: 街を守る者としての矜持。矜持...か。

 

草川: さて、心が熱くなったところで、仕事を始めるとするか。

 

道路整備課の若手職員: 草川さん、大城部長がお呼びです。

 

草川: 分かった。今、行く。

 

大城: 草川君、準備はできてる? 市長や上層部を説得するのは骨が折れたわよ。予算を用意するのはもっと大変だったけどね。総務部長の東堂さんが財務部長を説き伏せて後押ししてくれたから何とかなったけど。

 

草川: はい、準備は進めております。また、ご支援、痛み入ります。機材を調達するためには総務部長と財務部長の力が必要でしたから、ありがたいです。それと、GISのスペシャルチームがないと、この計画の遂行は無理だと思っていましたが、何とか間に合いそうですね。

 

大城: 浦安を水害から守る手段。オケアニデス・プロジェクト。本当にうまく行くのかしら?

 

草川: もはや我々に土嚢を積んでいる余裕はありません。鈴石と情報政策課の君島のアイデアですが、若いというのは素晴らしいですね。私にはそういったアイデアを考えつくことさえありませんでした。それとも、水害に対して白旗を挙げますか?

 

大城: 白旗ねぇ...私の性格からして、あまり好きじゃないわね。じゃあ、そろそろ関係職員に号令をかけるから、準備をしましょうか。草川君は消防団長とGISタスクフォースの小柳君に連絡を。

 

草川: 承知しました。

 

(台風上陸まで14時間)

 


第六話: 切り札


 

市役所の中の大会議室。

 

都市整備部、総務部、健康こども部、市民経済部、福祉部、生涯学習部の課長級と課長補佐級の職員が集合。

 

大城 (都市整備部長): 皆さん、お忙しい時にお集まりいただいてありがとうございます。会議は時間を決めて話し合うものではなく、話す内容を決めて話し合うものと考えています。この非常事態ですので、手短に今後の行動をお伝えします。

 

全員: ・・・・

 

大城: 今回、東京湾に向かっている大型台風は、最大風速が毎秒30メートル、最大瞬間風速は毎秒50メートルを超えることが予想されています。それ以上の脅威は降雨量です。市が想定している1時間あたり60ミリメートルを超える降雨が続く可能性が想定されます。このことが何を意味するか。浦安に甚大なダメージを生じたキティ台風を思い浮かべた職員は多いかと思います。

 

全員:・・・・

 

大城: 市としては排水機場やポンプ場、貯留施設の整備を行ってきましたが、想定を上回る降雨が続いた場合、それらの対策では対応しきれない事態になる可能性があります。

 

全員: ・・・・

 

大城: 浦安市としては水害対策について県や国に要望を続けてきましたが、すでにこの状況では私たちの力で対応するしかありません。また、東日本大震災の液状化の際には周辺自治体の支援をいただきましたが、今回の状況は周辺の自治体も同じです。浦安市よりもさらに大きなダメージを受ける自治体もあることでしょう。

 

全員: ・・・・

 

大城: すなわち、私たち市職員は、周辺自治体のサポートをあまり頼りにできず、スタンドアローンで対処せざるをえないということです。

 

全員: ・・・・

 

小柳: はい! せんせ~い! お話の途中ですが、意見があります! その話、いつになったら終わるんですか? 熱くなるのは分かるけど、こっちは忙しいんだよね~。

 

草川: おい! 小柳! 部長に向かって、なんて口の利き方だ!

 

大城: いいのよ、草川君。そうね、長々と話している余裕はないわね。これからのアクションプランを伝えます。

 

全員: ザワザワ ・・・・

 

大城: 明らかに想定を超えた降雨量が予想されますが、県や国の支援を考えているような状況ではありません。私たちは行政の最前線です。市民のために一歩も引くわけには行きません。そこで、市内のダメージを可能な限り軽減するため、都市整備部と総務部を中心としたグループが計画を準備してきました。すでにオケアニデスというプロジェクト名についての噂を耳にしたかもしれません。この計画については、すでに市長や副市長ならびに部長会議の承認を得ています。具体的な内容については道路整備課の鈴石主任から説明してもらいます。鈴石君、前に出て説明して。

 

復興事業課長: ヒソヒソ (おい、鈴石って、東大工学部卒のあいつか?)

 

復興事業課長補佐: ヒソヒソ (そうみたいですね...)

 

復興事業課長: ヒソヒソ (笑えるな。)

 

復興事業課長補佐: ヒソヒソ (風が吹けばなんとかでしょうかね...)

 

鈴石: 道路整備課の鈴石です。大城部長のご指名によりご説明いたします。市が想定する1時間あたり60ミリメートルを超える降雨が続いた場合、排水のための設備の処理能力を超えて雨水がオーバーフローし、市内が冠水することが想定されます。

 

全員:・・・・

 

鈴石: 浦安市として、このまま何もせずに状況を眺めているわけにもいきません。排水機場やポンプ場、市内の貯留施設が整備されているからこその前提ではありますが、オーバーフローした分の雨水を能動的に河川や海に排水するための準備を始めます。

 

全員:・・・・

 

復興事業課長: ヒソヒソ (そんなことができるのかよ?)

 

復興事業課長補佐: ヒソヒソ (机上の空論じゃないですよね...)

 

鈴石: 当初、埼玉県の坂戸市や川越市、ふじみ野市などが導入している高性能な排水ポンプ車による雨水の排除を考えていました。排水ポンプ車自体は車両ですので自由に移動することができますが、実際に排水行動を実施している際の活動距離は50メートル程度です。排水用ホースの長さやモーター駆動による排水ポンプのケーブルに限界があるからです。

 

全員:・・・・

 

鈴石: 浦安市は排水可能な河川や海に面していますが、高度に都市化されているため、冠水予想箇所から排水しうる河川や海までかなりの距離があります。50メートルの活動範囲では、排水用のホースや電源ケーブルが足りません。また、排水ポンプ車は1台あたり4千万円から5千万円と高額であり、それらを多数配備する余裕もありません。埼玉県の基礎自治体が導入している排水ポンプ車の台数は多数あるわけではなく、1台程度です。

 

全員:・・・・

 

鈴石: しかし、坂戸市や川越市、ふじみ野市に学ぶことは大きいです。たった1台の排水ポンプ車で何が変わるのかと私も感じていましたが、想像以上のポテンシャルを発揮しているようです。市内で冠水等があった場合にも、国土交通省に頼らずに自らの力で排水活動を開始することができますから。

 

全員:・・・・

 

鈴石: さらに、これらの自治体から学ぶべき着眼点の良さは、導入した排水ポンプ車のスペックです。フラッグシップモデルと比べるとコストダウンが図られた汎用品ではあるものの、旧型の排水ポンプ車の欠点が改善された新型の車両です。旧来の排水ポンプ車に配備されていた排水ポンプは、1機あたりの排水量は大きいのですが、重量が数百kgもあり、その設置にはクレーンが必要でした。坂戸市や川越市、ふじみ野市が導入している排水ポンプ車は、高性能モーターが採用された超軽量排水ポンプが搭載されています。

 

全員:・・・・

 

鈴石: 超軽量排水ポンプの場合、1機あたりの排水量は小さいですが、それらを排水ポンプ車に複数搭載することで全体の排水量を増やしています。旧型の排水ポンプと比較した場合、超軽量排水ポンプのメリットは圧倒的な機動性です。1機あたり約30キログラムしかなく、人力で持ち運べる程度です。つまり、排水ポンプを職員が荷台車で、もしくは二人がかりで手持ちで運べば、狙ったスポットにポンプを運んで排水することが可能です。

 

草川: 鈴石君、埼玉県の川越市や坂戸市が導入した排水ポンプ車のポテンシャルはどれくらいなのか、説明してもらえるかな?

 

鈴石: 1分間あたりの排水量は30立方メートル程度と公表されています。小学校などに25メートルのプールがあると思いますが、プールの水を10分もかからずに排水できます。

 

復興事業課長: ヒソヒソ (学校のプールを10分間もかからずに排水だと?)

 

復興事業課長補佐: ヒソヒソ (そんなに馬力があるんですね...)

 

鈴石: 排水機場の場合にはさらに高い排水量がありますが、排水ポンプ車の機動性は実に高いです。また、国土交通省の地方整備局等に配備されている排水ポンプ車は、基礎自治体に配備されている車両よりもさらに高いスペックを有しており、1台あたり超軽量排水ポンプを12機程度搭載しています。

 

市民課長: ・・・・(12機...言葉の意味はよく分からんが、とにかくすごい迫力だ。)

 

鈴石: つまり、これらの車両のスペックは、水害対策において先進的な取り組みを行っている坂戸市や川越市等に導入された排水ポンプ車の2倍。毎分60立方メートルの排水量を実現しています。つまり、5分程度で小学校の25メートルプールの水を排水しうる能力があります。以前、タイ王国で大きな水害が発生した際、日本政府の職員等が派遣されましたが、10台の排水ポンプ車が非常に高い能力を発揮し、国際貢献につながりました。見方によっては、たった10台の排水ポンプ車が。

 

復興事業課長: ヒソヒソ (...なんか、あいつ、すごくねぇ? スケールが市のレベルから超えてねぇ?)

 

復興事業課長補佐: ヒソヒソ (...わたしたちだと隣の市を助ける程度ですからね...外国を助けに行くって...ほんとですね...)

 

小柳: ヒソヒソ (なんなの彼~? たまにはすごいのもいるのね~。)

 

草川:  ヒソヒソ (私が育てた部下だ。黙って聞け。)

 

鈴石: しかし、排水ポンプ車の構造を考えてみると、構造はシンプルです。タービン式ではなくて排水ポンプ式の場合には、当然ながら排水ポンプと専用のホース、その排水ポンプの動力となる自家発電装置、そしてポンプへの電力をコントロールする制御器です。排水ポンプ自体はともかく、排水用のホースや制御器をバラで調達することができますし、自家発電装置については電力やソケット等の規格が合えば、工業用のレンタル品を使用することも可能かと思います。つまり、排水ポンプ車を購入するよりもずっと低価格で排水ユニットを組み上げることができると考えました。

 

全員: ・・・・

 

鈴石: 浦安市よりも大きな面積を有する自治体の場合、水害のターゲットは河川が多いです。そのため、堤防の決壊などによって生じた浸水箇所に対して速やかに移動し、その浸水箇所から河川等に排水するための機材がオールインワンとしてまとめられた排水ポンプ車が有用と考えます。事実、数台の配備によって、大きな効果を実現している自治体が存在します。たった数台の排水ポンプ車を導入するだけで。

 

全員: ・・・・

 

鈴石: しかし、浦安市のような都市型水害を想定した場合、ダメージを受ける市内のエリアはあらかじめ想定されています。つまり、あまりに高い機動性は必要ないということです。また、最新鋭の排水ポンプ車を浦安市に配備するにはコストがかかり、水害が発生しない場合には他の自治体への支援を除いて無用の長物になりかねません。つまり、既存の排水ポンプ車のコンセプトには基づかないシステムが必要だと考えました。

 

全員: ・・・・

 

鈴石: そこで、実際の水害を経験し、超軽量排水ポンプの有用性を示唆した国土交通省の北陸地方整備局のデータを分析し、都市整備部内で協議を続けた結果、一つの結論に至りました。

 

復興事業課長: ・・・・

 

復興事業課長補佐: ・・・・

 

鈴石: 市職員が持ち運べる程度の超軽量排水ポンプを、水害リスクのある個所に多数設置します。市として購入した排水ポンプは200機。1分間に60立方メートルを排水しうる国土交通省の最新鋭の排水ポンプ車に換算すると、16台を超えるだけの能力があります。

  

復興事業課長: ヒソヒソ (最新鋭の排水ポンプ車に換算して、16台以上...だと...? )

 

復興事業課長補佐: ヒソヒソ (日本政府が水害に遭った他国を助けに行った時よりも多いじゃないか...)

 

鈴石: ただし、都市型水害の場合には、排水ポンプ車の一般的な活動距離である50メートルを大幅に超えたロングレンジの排水が必要になります。そのため、複数の超軽量排水ポンプをパルジェットホースによって直列に接続し、活動距離をできる限り伸ばします。浦安市の場合には河川等の境目を除けば、ほとんどが平地です。排水のための距離と同様に課題となる揚水の高度については負荷が少ないです。ある程度の排水量の減弱は仕方がありませんが、その場合には1系統あたり、さらに多くのポンプを直列に接続します。これらによって、少なくとも500メートルの長距離排水が可能になります。これらはすでに政府系の機関によって実験がなされています。

 

復興事業課長: ヒソヒソ (ああ、だからオケアニデス計画なんだな...)

 

復興事業課長補佐: ヒソヒソ (え?)

 

復興事業課長: ヒソヒソ (浦安は図書館が充実しているのに、読書してないのか? オケアニデスってのは、ギリシャ神話に出てくる、たくさんの水の女神だよ。その父親のオケアノスは、海、つまり「Ocean」の語源になってるだろ?)

 

復興事業課長補佐: ヒソヒソ (課長、ギリシャ神話の本なんか読んでたんですか? ああ、たくさんの超軽量排水ポンプを市内に配置するって、そういうことなんですね...)

 

鈴石: また、超軽量排水ポンプのモーターを駆動させるためには電量が必要となります。その動力となる自家発電装置については、従来の排水ポンプ車と同様に液体燃料によって発電します。その際には、浦安鉄鋼団地協同組合の大型トレーラーをお借りし、地上に設置することなく起動させることにします。通常の排水ポンプ車では、自家発電装置の燃料に制約があり、活動限界がありましたが、大型トレーラーには追加の燃料タンクだけでなく、万が一の状況を想定して予備となる自家発電装置そのものを複数台搭載してもビクともしません。

 

全員: ・・・・

 

鈴石: 排水ポンプと制御ユニットについては市で購入しましたが、自家発電装置については、工業用として普及しているレンタル品を賃借することで予算を抑えます。大型トレーラーについては、ドライバーを含めて鉄鋼団地の皆様のご支援を頂きます。オーバーフローした雨水によって自家発電機が水没するような状況、もしくは職員に危険が及ぶような状況では、電源ケーブルを解除し、大型トレーラー自体が「動く基地」として職員を乗せた状態で移動し、態勢を立て直します。

 

全員: ・・・・

 

鈴石: 市としては、排水基本計画等のデータに基づいて、市内の冠水および浸水の予想ができている状況です。超軽量排水ポンプを駆動させるためには、水深1メートル程度の深さが必要になることが一般的ですが、その時点で市内が冠水しているような状況になりますので、想定に含めません。

 

全員: ・・・・

 

鈴石: そこで、下水道の雨水管にフロートを接続したポンプを投入し、そこから排水します。排水ポンプを雨水管に投入すると、必然的にパルジェットホースが屈折してしまいますので、T字もしくはL字型のジョイントが必要となりますが、これらについては鉄鋼団地の皆様にプロトタイプとして製作して頂いており、すでに実験も済んでいます。お礼として、そのデータと特許取得の権利については鉄鋼団地の皆様にそのままお渡しします。当然ですが、浸水が予想される鉄鋼団地についても排水ポンプを配置します。

 

小柳: 鉄鋼団地って、すごいよね...さすが日本一だよね...

 

下水道課長: 質問がある! っていうことは、超軽量排水ポンプを投入するためのスポットを特定する必要があるってことかい? 下水道課って、名前があまり格好よくねぇが、もしかして、俺たちが頼りになるってことかい?

 

鈴石: 課長の仰る通りです。排水ポンプを直列に接続して、長距離排水を実現しえたとしても、その活動範囲には限界があります。また、市内にパルジェットホースを長々と伸ばすと、緊急時の車両が通行できなくなります。しかし、水は雨水管を伝って流れてきますから、より河川や海に近い場所を狙って雨水管のマンホールを開け、そこに排水ポンプを設置すれば、パルジェットホースを延々と伸ばし続ける必要はないということです。

 

下水道課長: つまり、それって...

 

鈴石: この計画の達成のためには、市内の雨水管を知り尽くしている下水道課の力が必要です。下水道課の皆さんがおられないと、このプロジェクトは達成できません。

 

下水道課長補佐: ・・・・ゴクッ

 

鈴石: また、市内の雨水管は、過去の液状化によって大なり小なりダメージを受けています。机上の想定だけではなく、液状化による影響がどの程度残存しているのかを熟知している職員、つまり、復興事業課の皆さんの力が必要です。

 

復興事業課長: ・・・・(...やるか。やるぞ!)

 

復興事業課長補佐: ・・・・(...頼りにされると、燃えるね...やるぞ!)

 

鈴石: 雨水を排水するためのスポットに加えて、台風上陸による暴風が予想されます。そのため、排水用のパルジェットホースの配置には考慮が必要です。風向きと緊急車両の通行、市街地のビルの配置を考え、ホースが飛ばされないように配置せざるをえません。そのような情報を白地図に書き込んでいる余裕はなく、G空間情報を的確に解析し、現場の職員にフィードバックしなくてはなりません。そのためには、浦安市が蓄積してきた地理情報システム、GISの力が必要です。情報政策課を中心としたGISタスクフォースは、市内の被害箇所の把握というパッシブな対応よりも、むしろこちらから水害に対してアクティブに対応するための天空の目になります。

 

小柳: なるほどね~。腕が鳴るよ~。

 

鈴石: また、急ごしらえの排水システムであることは否めませんから、制御盤の操作等は市職員がマニュアルで動かす必要があります。この暑さですから、市職員の体力の消耗が考えられます。災害対策本部からの情報伝達を含めて、市内の公民館がベースキャンプになります。

 

当代島公民館長: 大丈夫。最前線で働く職員の背中を、私たちが守りますよ。

 

市民課長: 質問があります。私たち市民経済部や福祉部の職員は、ホースを引っ張って配置するということでしょうか?

 

鈴石: パルジェットホースは軽量ですが、市職員だけで市内に配置するのは困難です。そのため、浦安市の消防団の皆さんのお力が必要になります。また、タブレット端末には数に限りがありますので、若手の市職員を中心としてホースの設置のバックアップをいただけると助かります。

 

市民課長: 了解です。

 

鈴石: ただし、私のような立場の職員が申すのは心苦しいのですが、大型台風が上陸し市内にダメージが生じている状況では、市民から電話による多数の連絡が入ることが予想されます。過去の液状化の際には、クレームや怒りを市職員にぶつけていた市民がいたようですが、それによって市職員が疲弊するのは良くありませんから、適当なタイミングで電話を切ってください。ただし、市民からの街の情報についてはメモ書きでも構わないので情報政策課のタスクフォースに伝達してください。GISによってマップ化した情報は災害対策本部において市長以下の幹部がリアルタイムで確認し、意思決定することになります。

 

復興事業課長: ヒソヒソ (...こいつ、頭の回転が半端ないな...)

 

復興事業課長補佐: ヒソヒソ (...どうして市役所に就職したんでしょうね...)

 

鈴石: その他の細かな内容につきましては、各職員に配布されたタブレット端末に表示されます。念のため、タブレット端末には防水カバーが付けられていますが、庁内LANへのネットワーク接続はすでに完了しています。また、端末からの情報は、市長を含めた対策本部にもリアルタイムで転送され、また対策本部からも双方向で情報が伝達されます。

 

大城: ありがとう、鈴石君。では、会議終了次第、関係各課は対応を始めてください。排水ポンプ、自家発電装置を積載したトレーラー、排水用ホース、および夜間作業用の照明車の配置については、GISタスクフォースから各自の携帯端末にマップとナビゲーションが受信されます。

 

全員: ・・・・

 

大城: 現時点をもって、今回の水害対策システムを「オロチ」と呼称します。直ちに業務を再開してください。

 

全員: 了解。

 

(台風上陸まで12時間)

 


第七話: 父親の背中


 

明日の大型台風の上陸に備えて、海沿いの新町エリアにある日の出公民館に設置されたメイン・ベースキャンプ。

 

草川: よし、排水用の超軽量ポンプとホースは市内の浸水想定ゾーンに配置されたようだな。そろそろ日付が変わる。あと8時間か...ここからが長丁場だ。数日前から連続勤務が続いている。腹が減っては何とやらだ。休憩がてら、夜食を食べておこう。すでに計画は各職員に通達されて、今は大城部長の指示の下で、GISタスクフォースが情報を伝えている。ようやく休憩できるよ。

 

鈴石: 明日の朝の台風上陸には間に合いそうですね。市民へのアナウンスについては、夕方の段階で市のサイトやツイッター、自治会などを経由してお伝えしました。市民の方々のブログでもアナウンスを手伝っていただきました。しかし、「防災うらやす」のスピーカー放送が最も効果的だった気がしますね。

 

草川: 東日本大震災の計画停電の時には、防災うらやすで実施の有無を伝えたよな。本日は計画停電が行われないとスピーカーからアナウンスが流れた時、団地の各部屋から安堵の声が聞こえたそうだよ。

 

鈴石: ネットが発達しても、やはり人の声というのは大切ですよね。安心や信頼を感じる上でも。さて、鉄鋼団地のプラント内では、大型トレーラーへの自家発電装置の積み替え作業が完了し、やなぎ通りとシンボルロードを中心に一時的に待機しています。行動が発令された時点で、ターゲットポイントに移動し、パルジェットホースを接続することで、排水システム「オロチ」が展開されます。

 

草川: ありがとう。鉄鋼団地の工場内には小型クレーンが設置され、照明設備も充実している。電源の制御盤のアングル固定や防水処理も短時間で実施してくださった。さすがプロだな。これからは鉄鋼団地に足を向けて眠れないな。

 

鈴石: 同感です。何より、鉄鋼団地には大型車の運転に長けた百戦錬磨のドライバーさんたちがおられますからね。彼らの多くは実務で鍛えておられますし、強風や豪雨、雪の上でさえ重いトレーラーを走らせてきました、場数と気迫が違いますよ。私たち市職員が排水ポンプ車を運転するよりもずっと正確で安全です。

 

草川: 消防職員には、火災時の消火活動や市民の救助のミッションがあるから、大規模な排水までは手が回らないだろうし、本当に助かるよ。それにしても、君はどうしてこのような排水計画を思いついたんだい?

 

鈴石: 市内の道路を巡回して見回っている時、他市で導入されている排水ポンプ車を浦安市に導入することを考えていたのです。ただ、高度に都市化された浦安市の場合には、浸水箇所から河川まで50メートルのホースでは距離が足りません。しかし、これ以上の超軽量ポンプを排水ポンプ車に搭載しようとすると、スペースが足りませんし、自家発電装置の電力も足りません。

 

草川: しかし、あまりに大きい排水ポンプ車では、実際の排水作業に向かう時に車両が移動できないな。

 

鈴石: はい、おっしゃる通りでして、国交省の地方整備局が水害対応に向かった際、どうしても排水ポンプ車を浸水箇所に搬入することができないという状況を経験したそうです。その際には、排水ポンプ車を分解して、ポンプや自家発電装置などに分けて、陸上自衛隊のヘリで輸送したことがありました。その経験があって、超軽量排水ポンプが開発されたそうなのですが、そのプロセスを学んで思ったのです。「そうか、排水ポンプ車のエレメントを個別に用意して、必要に応じて組み上げればいいんだ」と。それなら、ポンプや配電盤、ホースといったパーツを購入するだけで、あとはレンタルで何とかなりますし、実際の事業に必要な予算は4億円もあれば足りるかなと。

 

草川: うちの市の場合、大きな水害が1年に1回も来ないだろうし、10年に1回、もしくは50年に1回かもしれない。そういったことで新品の排水ポンプ車が必要なのかどうかだな。ポンプやホースはともかく、ベースとなるトラック自体はほとんど走行しないだろうし、それでも毎年の車両の維持に費用がかかるだろ?

 

鈴石: もちろん、市職員のトレーニングのために1台くらい導入しておくことも大切だとは思いますが、後々まで予算がかかる設備を残してしまうと、後になって大変ですからね。施設だってそうです。

 

草川: 我々のような職員にとって耳が痛い話だな。それ以上は立場的に言えないが。

 

鈴石: しかし、高度に都市化した浦安に適応するように排水ポンプ車をカスタマイズするとして、車両をどうするのかということがネックでした。情報政策課の君島と雑談していた時、「あのさ、浦安だったら、局地戦に特化した排水装備でいいんじゃね? エヴァみたいな...」というアドバイスをもらったんですよ。

 

草川: エヴァンゲリオンなんて、君たちの世代にとっては古典じゃないのか?

 

鈴石: 私たちは新劇場版の世代ですけどね。草川さんはテレビで見ていたんでしょ? すごいなぁって。

 

草川: 「なんだこのマニアックなアニメは?」と思ったし、粗削りなストーリーではあったが、私たちの心に響く何かがあったんだろうな。

 

鈴石: ここだけの話ですが、ほら、市役所って、心がグッと熱くなるような仕事が少なかったりしますよね。ルーチンワークだってもちろん大切ですが、若手が自らプロジェクトを立ち上げて前に進む機会が少ないと言いますか。市役所的に考えると、やはり他の自治体での取り組みをモデルにして、それらをエビデンスにして事業計画を組みますよね。奇想天外な発想で事業を始めるのは難しいでしょうし。

 

草川: まあ、変わったことと言えば、市職員が面白い格好をして窓口業務をやるとか、ちょっとしたゆるキャラをつくるとか、ご当地の名産品を手にとってアピールするとか、そういったことかもしれんな。あとはオフサイトで様々な自治体の職員と一緒にミーティングを開くとか...ああ、これは業務ではないな。

 

鈴石: 色々と悩みながらシンボルロードを浦安カーで走っていた時、日の出地区と入船地区の間の道路から鉄鋼団地に向かう大型トレーラーを見かけたのです。あのトレーラーって、大人になった私が見ても少年時代を思い出します。迫力があって、素敵ですよね。

 

草川: 全くだな。少年の頃にテレビで見た、ヒーローが乗って怪獣と戦うロボットの迫力を感じるな。あんなに大きな車両を、たった一人で動かすドライバーさんたちは、どのような気持ちで運転しているのだろう。きっと、見晴らしが良くて、我々が見たことのない視界が広がっているのではないかと思う。

 

鈴石: ほら、何かを考え続けていると、ちょっとしたタイミングで点と点がつながって、一つのアイデアになる時があるでしょ? その時、水害対策や排水ポンプ、市内の道路、大型トレーラー、エヴァンゲリオン...そういった点がつながった気がしたんです。「そうか、既製の排水ポンプ車じゃなくて、自分たちで排水ポンプ車をつくってしまえばいいんだ」って。

 

草川:  点と点か...スティーブ・ジョブズの名言だな。

 

鈴石: "You can't connect the dots looking forward.  You can only connect them looking backwards.  So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something... " とても深みのある言葉です。しかし、将来、点と点がつながることを信じて、経験や知識を大切にしている市職員がどれくらいいるのでしょうか? 

 

草川: 気持ちは分かるが、「鏡を責めて何になる」だよ。我々にも考えることはたくさんあるし、実際に考えている。処理しなくてはならない業務は山積みになっていて、対応するだけで精一杯だ。あまりに深く考え込んでしまうと、心がもたない時だってあるだろ?

 

鈴石: そうですね...言い過ぎました。すみません。

 

草川: ...あのさ、鈴石君。プライベートなことで大変恐縮なのだが、君に尋ねたいことがあるんだ。君は、どうして東京大学を卒業してまで、うちの会社にやってきたんだい? 慶應大学でMBAまで取得して、外資系の金融関連の企業に勤めていたんだろ? 高給取りじゃないか。

 

鈴石: あはは、草川さん、ここは市内の飲食店ではないですから、「会社」なんて仰らなくて結構ですよ。外資で働き始めた時の最初の年の報酬が、うちの市役所の部長の年収よりもずっと多かったですからね。いや、市長よりも多かったかもしれません。コーヒーや缶飲料なんて、お金を払わなくても職場に用意されていましたし、オフィスの掃除や電話の受付も係員が対応してくれましたし、デスクは今よりもずっと大きなサイズで、椅子はエルゴチェアを用意してくれましたし。

 

草川: すごいな...

 

鈴石: 徹底した成果主義で実力主義ですから、使えないと判断されたらクビを切られますが、しばらく働けば年収は数千万円くらいになりますからね。金銭感覚がおかしくなった気がしましたよ。スーツも、車も、マンションも、食事も、旅行も、女性関係も...

 

草川: すごすぎだな...

 

鈴石: しかし、とある日のこと、都内を一望できる高層ビルの職場から外を眺めていて、私は悩みました。「お金って、なんなんだろう?」「仕事って、なんなんだろう?」そして、「生きるって、なんなんだろう?」と。学生時代に考えていたことが思ったよりも早く実現できてしまって、一通りのことを経験して、自分の存在がとても小さく感じられたのです。目標を見失って、自分の存在自体がなくなってしまうような。

 

草川: 贅沢な悩みだな。一度でいいから経験してみたいよ。

 

鈴石: もしかすると、生きることに疲れていたのかもしれませんね。有名大学に進み、一流企業に勤め、大金を稼いで裕福な生活を続ける。これらは私の親が望んで、私が歩んだ道でした。私も親になりましたから、気持ちは分かるんです。けれど、「自分は、何がしたいのだろう? どうやって生きようとしたんだろう?」って、気付いてしまったのでしょうね。私は、親が描いたレールの上、もしくは社会がつくりあげたレールの上を、一生懸命に走っていただけなのかなと。毎日、頑張って仕事を続けていたのですが、ぼんやりした不安が大きくなりました。

 

草川: その場所にたどり着いた人でないと見渡せない境地だろうか。

 

鈴石: とある日のこと、道端で困っているご老人の手を引いてバスに乗せてあげたのです。足腰が弱って、バスのステップにのぼることが辛そうでしたから。すると、ご老人から「ありがとう」って感謝されました。その時、私の両足がきちんと地面を踏みしめているような不思議な感覚があったのです。誰かを助けて、感謝されるような仕事に転職したいなと思ったんです。社会に奉仕することを仕事にしたいなと。それで浦安市の職員採用試験を受けました。市役所では目の前に市民がいますからね。

 

草川: あはは、いや、笑ってはいけないな。社会への奉仕という点では、それが仕事だから、毎日が奉仕になるな。

 

鈴石: はい。私の職業人生はドロップアウトでもなんでもありませんし、今は生きていることを実感できています。今でも後悔していませんよ。入庁した時は、給与明細を見て愕然としましたが...これは現実なのかと。

 

草川: おいおい、外資系の証券と比べてくれるなよ。日本全国の自治体の中では給料が良い方なんだよ。時給に換算したら、霞ヶ関のノンキャリア職員よりも給料をもらっているはずだよ。

 

鈴石: そして、市立保育園の保育士さんと出会って、結婚。毎日、優しい妻と生活することができて、子宝にも恵まれて、本当に幸せですよ。

 

草川:子育てに入っても優しい奥さんで良かったな。新婚時代は優しかった妻が途中から性格が強くなることはよくあって、夫もしくは父親としては、妻がキレないことが幸せの8割だと聞いたことがあるな。私にはあまり経験がないが...

 

鈴石: え? 奥さんも息子さんたちもおられますよね?

 

草川: ああ、うちの夫婦は、ひとり親同士の再婚だよ。自治会のボランティア活動で知り合った。それまでは、今の長男を妻が、次男を私が育てていた。私の前妻は、息子を産んですぐに亡くなった。だから、私は一人で息子を育てたんだ。

 

鈴石: すみません...

 

草川: いや、気にしないでくれ。大切な妻を失った悲しみは今でも残っているし、当時は絶望の淵にいた。しかし、本当にたくさんの人たちに支えられてここまで来た。職場である浦安市役所の皆さんの支えもあった。感謝の気持ちで一杯だよ。次男は母の温もりを知らずに育ったから、亡き妻も喜んでくれていることだろう。ただ、悩みはあるな...

 

鈴石: 悩み?

 

草川: 妻が育ててきた長男のことなんだ。浦安高校の3年生なのだが、毎日、コツコツと勉強していて、将来は私と同じ千葉大学に進みたいそうだ。模試では好成績で、学校の先生からはこの調子で頑張れと言われている。

 

鈴石: 良かったですね。

 

草川: うちの長男は実母の再婚相手である私に対しても礼儀正しくて優しい。しかし...私のことを一度も「お父さん」と呼んでくれないんだ。面と向かって荒れたりはしないが、分かるだろうか...私に対して、冷たい憎悪のような、軽蔑したような目をすることがある。母が再婚したとか、そういった話ではなくて、私の市職員としての仕事と、彼の生い立ちに関係しているようなんだ。

 

鈴石: え? 考えすぎじゃないでしょうか。草川さんは市役所で誰よりも地道に働いてらっしゃいますよ?

 

草川: 口の堅い鈴石君だからこそ話すが、妻の前夫はすでに他界した。妻から聞いた話で、私も詳しくは知らないが、前夫...つまり長男の実父は、浦安市ではない地方の街で、主に行政から仕事を受注するような会社を経営していたそうだ。最初は裕福だったそうだが、途中から負債が膨らみ、過労と心労で倒れ、最後は自ら命を絶ったそうだ。前夫は、長男が小さな頃から、地方行政から厳しい要求を突き付けられていたようで、長男は幼い頃から、入札をとれずに苦悩したり、随意契約を受けるために自分よりも若い市職員に対して必死に頭を下げ続ける実父の姿を見て育った。年越しの時期、家庭には沈んだ空気が漂っていたようだ。夜、布団に入っても、不渡りを出すと家庭が崩壊するのではないかという恐怖を子供ながらに感じていたそうだ。さぞかし辛かったことだろう。

 

鈴石: ・・・・

 

草川: 父親の家事や育児が美徳とされる時代ではあるが、今も昔も、父親が倒れた時には家庭の生活が傾く。ある程度は父親の疲れを気遣う必要はあると思う。夫を亡くした妻は、まだ幼い長男の手を引いて市役所に行き、ひとり親への補助を申請した。しかし、窓口の市役所の若手の男性職員の態度が冷たく横柄だったそうだ。同じ行政の人間である私としても、その態度はいかがなものかと感じた。市民の心情にできる限り配慮し、心のこもった対応が必要だと思うのだが、「こっちも忙しいんだよ」と言いながら、申請様式の箇所をボールペンの先で指し示したそうだ。その市職員の態度が、まだ幼い長男の目に強く焼き付いたようなんだ。

 

鈴石: 浦安市役所だったら、普通はそういったことはしませんよ。配偶者の死別で心の傷を抱えている状態なのに、どうして、そういった態度がとれるのでしょう。しかし、市役所の職員という仕事をただの職業だと割り切って、プロとしての志があまり高くない若手はいなくもないですね。

 

草川: 若手だけじゃないよ。ベテランだってそうだ。目の前の市民よりも自分の立場や出世を大切にする職員がいることは否めない。そして、妻は長男を育てるために、昼も夜も懸命に働いた。しかし、家計は厳しく、時には食べることにも苦労した。長男は、母から手渡された鉛筆やノートの大切さを実感し、一生懸命に勉強を続けた。中学に入ると、職員室に行って、担任の先生に頭を下げながら参考書や問題集をもらいに行ったそうだ。ほら、業者がサンプルとして学校に渡して山積みになっていたりするだろ? 母に対して学習塾に通いたいと言い出せず、それでも学びたいと思ったからだ。

 

鈴石: ・・・・

 

草川: そして、長男の誕生日。寒い日に夜遅くまで働いた妻が長男を連れて、せめてこの日は外食しようとファミレスに向かっていた。その道すがら、赤ら顔で大騒ぎしながら歩いてくるノーネクタイのスーツ姿の集団がやってきた。その中の一人に見覚えがあった。生活に困っているのに、冷たく横柄に接してきた市役所の職員だったそうだ。要は、市役所の忘年会の帰りだったのだろうな。そして、彼らは妻や子供のことなど覚えていなくて、挨拶することもなく、笑顔で大声を挙げながら通り過ぎたそうだよ。

 

鈴石: ・・・・

 

草川: 長男の気持ちは分かるだろう。「僕のお父さんは、家族を養おうと一生懸命に働いて、街のために働いて、身体を壊して死んだのに。税金で生活している市役所の人たちは、お酒を飲んで、笑ってるなんて...」と。その横柄な市職員にも都合があったのだろうが、相手が悪かった。長男は思春期だからな。色々と感じて怒りが増幅したのだろう。そして、長男にとって市役所、いや、地方の役人は、さらなる憎しみの対象になった。

 

鈴石: 浦安市の場合には働きすぎて体調を壊す職員までいるくらいですからね。市役所の外での行為についても気を付けていますが...ただ、過去には色々ありましたから、耳が痛いです。浦安市の事例ではありませんが、納税者の感情をあまり考えずに、わざわざ「市役所の職員です」と明記した上で、酒を飲んだり、豪勢な料理を食べたり、旅行に行ったとネットで発信している人はいますよね。街には身体を壊して働けない人もいますし、貧しさに耐えている人だっています。大きな借金を抱えてギリギリの生活をしながら住民税を納めている人もいるのに、配慮が足りませんよ。

 

草川: 顔の横に酒瓶を置いて笑顔で写真を撮り、「私は県庁勤務です」とアピールしている人までいる。プライベートであれば、その人の自由だが、わざわざ公務員であることを明記する必要はない。それが個人のアピールポイントだと思っているようなら、それは違う。そのような職員の感性を私は理解できないし、県民から生温かい視線が飛んでいることに気がつかない鈍感力の高さに驚く。

 

鈴石: たぶん気づいていないのでしょうね...県内にも様々な課題があり、酒瓶を顔の横に掲げて楽しんでいる場合ではないと思うのですが。

 

草川: 役所の外の活動についてのガイドラインが、あまり整っていないということが問題なのだろうな。オフサイトで盛り上がっている人たちについては、大なり小なり、そういった気持ちを感じる。そこに納税者への配慮があるのかと。職場に不満があり、職場を変えたいのであれば、まずは自分を変えることが大切ではないか。

 

鈴石: 考えさせられますね...

 

草川: 鈴石君のように大学院を修了した人なら分かると思うが、何かを修得しようとすれば、年間をかけて講義に出席しても足りないくらいだ。それなのに、目立つ人を講師に呼んで、数コマのレクチャーで研修会を開き、それで勉強になったと自己満足し、その後、ビールを片手に飲み会を開くことで職場が変わるのだろうか。

 

鈴石: それでも、モチベーションを上げたり、人脈を広げる上では大切な取り組みだと思いますが...

 

草川: 皆で集まって同じポーズで集合写真を撮り、ネットで公開し。そのような行動を批判はしないが、納税者からの拍手がやってくるのだろうか。関係者の間では盛り上がっても、納税者から見ると冷ややかな視線がやってくるんじゃないか。納税者が本気になって怒ってきたら、それぞれの役所の人事課が耐えられるのだろうか。

 

鈴石: うーん、あのテンションはどうしてなんでしょうね。社会を知らないイベントサークルの大学生たちが、自分たちの価値観で盛り上がっているような感じですね。大学のイベントサークルというのは、「親の金で酒を飲んで遊んでるのか?」と一般の人たちに批判されることがありますが、アウトカムが不明確で、何をしたいのかが分かりません。楽しむことが目的なので、間違ってはいないと思いますが。

 

草川: そういったサークルが掲げるゴールイメージは壮大なんだよ、ただ実現できるかどうか分からない。サークルだったらそれも夢があっていいじゃないか。私が気になるのは、市や県の自治体職員が「公務員による」というフレーズを使って盛り上がることなんだ。それは、仕事なのか? それともプライベートなのか? 公務員には自衛官もいて警察官もいる。事務職であっても、キャリアやノンキャリアを含めた国家公務員の事務官もいる。割合としては事務職の地方公務員が多数派だが、公務員というフレーズを看板にしてしまって、果たして正しいのだろうか。

 

鈴石: ですよねぇ...

 

草川: 自治体職員の中には、自ら率先して仕事を切り上げて、夕方の6時から仲間と集まって楽しんでいる人がいるらしい。それも人の自由だが、市民のため、国民のため、夜遅くまで身を粉にして働いている公務員たちのことを考えているのだろうか。そういったムーブメントが起こり、若い自治体職員たちがフォローしてしまっているのはいかがなものか。市役所や県庁の外で仕事をするなら、まずは公務員という看板を降ろして勝負してほしいところだし、地方行政とは、本来、地道に働き、奉仕者としての務めを全うすることが大切なのではないだろうか。私のような考えは前時代的だと言われてしまうかもしれないが。

 

鈴石: いえ、大切なことですよ。

 

草川: すまない。愚痴になってしまったな。私なりには地道に働いているのだが、やはり長男のことが頭に残ってしまうな。オフサイトで盛り上がっている自治体職員の姿を目にしたら、おそらく長男は「やはりそうか」と怒りを増大させてしまうかもしれないと。

 

鈴石: いえ、役人気質と批判されたり、公務員バッシングが起こるのは、自分の仕事に対するプライド、さらに踏み込めば職業人としての哲学にも関係すると思います。自分がどうしてこの仕事に就いているのか。自分はこの仕事で何をするのか。

 

草川: 自治体職員にも色々なタイプがいるからな。いい歳を重ねた大人に対しては説教をしても始まらんだろう。血がつながっていなかったとしても、息子は息子であり、私は父親だ。長男と次男で扱いを変えることはありえないし、正しい方向に息子たちを導く義務がある。また、市職員としての地道な生き方を長男に見せて、少しでも心の氷を溶かしたい。かつて妻や長男に冷たく横柄に接した他の市の職員は、市役所の職員全体に当てはまることではなくて、一部の志のない職員なんだと。私事で大変申し訳ないが、今回の水害対応は、我が街だけではなくて、私の家族のためにも取り組みたいんだ。

 

鈴石: ・・・・

 

草川: 鈴石君。君は浦安市役所で働いていれば分かると思うが、市民は市役所のことを悪く言わない。時にはクレーマーもいるし、首長の方針によっては私たちが指摘を受けて返答に窮することもある。ただ、市民の皆さんは、私たち市職員のことを、街を守ってくれている人たちだと大切に想ってくださっている。この温かい雰囲気がどうしてつくられたのか。市職員が地道に、そして真面目に働き、市民との絆を作り上げてきたからだと思う。

 

鈴石: 私は経験していないのですが、液状化の時、市役所の人たちは心身を削って街の復旧に取り組み、市民から感謝されたと聞きます。

 

草川: あの震災のストレスや過労によって、何人の同僚が倒れたことだろう。それでも、街のために努力したつもりだ。そして、今、大型台風という危機が街にやってきた。上等じゃないか、私たちは、この街を守り切ってみせる。この職業人としての父親の背中を、長男に見せたいんだ。誰かを憎みながら生き続けることはとても苦しいことだろう。地方の役人を嫌う人は多いかもしれないが、長男の場合には、ごく一部の職員に対する憎しみが全体に広がってしまっている。それは父親として何とか直していきたい。私の職業人としてのプライドを、重要な役割を父親として長男に見せれば、考え方を変えてくれるのではないかなと思ってな。親は親であることを放棄してはならないからね。頼りない上司かもしれないが、力を貸してほしい。

 

鈴石: 草川さんが、たくさんの人たちに頭を下げ続けて、この計画の準備をしてくださったことを私は後になって気づきました。頼れる上司ですよ、一緒に頑張りましょう。息子さん、きっと分かってくれますよ!

 

草川: ありがとう、鈴石君...いや、これは申し訳ない。休憩時間なのに話し込んでしまったな。私たちはいつから眠っていないのだろう。

 

鈴石: 一昨日には眠った記憶がありますが、大丈夫です。アドレナリン全開ですよ!

 

草川: ありがとう。ただ、少しだけ仮眠をとっておこう。本当に申し訳ない。

 

鈴石: 草川さん! さっきから謝ってばかりですよ! もっと堂々としてくださいよ。

 

(台風上陸まで7時間)