我が子の個性が現れ始めて、学習塾の説明会で心躍らせて

 

父の日なので、父っぽく書こう。

 

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漫画やアニメ、映画でよくあるヒーローのお話。

 

はるか遠く。

 

善良な人たちがモンスターに襲われていて、たくさんの戦士たちが助けようとしている。

 

しかし、モンスターは強大だ。太刀打ちできない。

 

「どうしたらいいんだ!」

 

誰もが天を仰いだ、その時。

 

ヒーローがやってくる。

 

そのヒーローは、類まれな能力を授けられた選ばれし者。

 

あり得ないスピードとタイミングで敵の攻撃をかわし、特別な武具を振りかざし、動じることなくモンスターに一撃を加える。

 

クーッ、たまらん!

  

少年誌によくある設定で、相手がモンスターではなくて、悪者だったり。

 

遠距離から何かを解き放ったり、接近戦で飛び込んで行ったり。

 

特殊能力を有していたり、唯一無二の武具を与えられていたり、自らの身体が特殊だったり、子供の頃から特別な環境で育ったりと、色々なパターンがある。

 

ガッチャマンやデビルマン、仮面ライダー、ガンダム、サイボーグ009、マクロス、GANTZ、ARMS、攻殻機動隊、進撃の巨人、シドニアの騎士、僕のヒーローアカデミアまで、切り口は違っても同じラインだと思う。

 

進撃の巨人で、リヴァイ兵長が「The Reluctant Heroes」のBGMと共に初めて登場した戦闘シーンは、まさにこのパターンだ。

 

小中学生だけでなく、電車の中で漫画本を読んでいる中年さえも、そういった話に心躍らせる。

 

自分としては、攻殻機動隊のスナイパーの「サイトー」が心にグッとくる。

 

重厚なライフルを構えて、仲間のサポートがほとんどない孤独な状況。

 

ミスが許されない真剣勝負。

 

危機的な状況でも全く心を動かさず、全身の神経を研ぎ澄ます。

 

ここぞというタイミングで、彼の義眼を覆うカバーが開き、中から機械の目、イーグルアイが姿を現す。

 

公安9課、通称、攻殻機動隊は内務省直轄の攻性組織。

 

サイトーを含めたメンバーは、生来の能力に加えて、サイボーグ化によってさらに高い力を有している。

 

イーグルアイは、彼の脳内に広がったマイクロマシンとリンクし、さらに外部では人工衛星とリンクして目標の的確なG空間データを彼に伝える。

  

頭の中に雪崩れ込んでくる膨大な情報に飲み込まれることなく、あくまでそれらをサポートとして使いこなしながら、サイトーは自身の感性と経験をシンクロさせてトリガーを引き、超遠距離から目標をピンヘッドで打ち抜く。

 

軍隊の大型武装ヘリが暴走した時、サイトーが超遠距離射撃で目標を仕留めたシーンには鳥肌が立った。

 

クーッ、たまらん!

 

自分は戦闘マニアではないし、攻殻機動隊の劇中で人の命が軽く扱われていることを善しとしない。

  

ただ、組織においてサイトーの役回りは素敵だなと。

 

公安9課を率いるリーダーが異動になっても経験豊富なスナイパーは必要なわけで、社内政治に巻き込まれることがないし、たとえ公安9課がリストラで閉鎖されたとしても、手に職があるのでどこかの組織が雇ってくれることだろう。

 

実質的な係長が部下への当たりが厳しい草薙素子であっても、スナイパーという専門職に対してとやかく言う筋合いはない。

 

スナイパーは極限の状態で仕事を果たすことが役目。

 

集中しなくてはならないポジションでひっきりなしに部下から相談が来たら管理職をこなせるわけがないので出世を考える必要がないし、部下の指導において悩まされることもない。

 

仲間の支援に過度の期待をすることもなく、狙われたら自分で回避するしかない。

 

そもそもスナイパーは他のポジションと違って助けが入らないし、失敗すれば終わるだけ。

  

そのような孤高でマーベリックなスタイルというのは、男心をくすぐったりする。

 

クーッ、たまらん! 晩酌がはかどる!

  

妻から中二病をこじらせていると言われている自分だが、父っぽい話というのはそこからなのかというツッコミを無視して、さらに話を続ける。

 

では、「ヒーロー」には何があるか?

 

ヒーローには「個性」がある。

 

では、ヒーローによくある「選ばれし者」という表現は、本当に限られた個性を与えられた人たちだけに適用される言葉なのか。

 

自分はそうではないと思う。

 

誰だって、親からもらった大切な個性を持っていて、誰だって、選ばれし者なのだと思う。

 

では、職業人生においてヒーローになれるかどうか。

 

それは考え方や感じ方次第であって、当の本人が気付いていないだけかもしれない。

 

真面目に働いている限り、その仕事はきっと誰かの幸せに繋がって、誰かの笑顔に繋がっている。

 

皆がヒーローなんだと思う。

 

例えば、自分の自宅では、以前、トイレのタンクの弁が壊れて、水が流れっぱなしになって呆然としたことがある。

 

トイレの水を流した後、タンクに給水されるのだが、弁が壊れていたのでそのまま下水管に流れてしまう。

 

ずっと水が流れているので、気が付くと水道料金が大変な金額になってしまったが、自分にはそれらを直す術も道具もない。とても無力だった。

 

その時、日曜日にも関わらず水道業者のサービスマンがやってきて、一瞬で状況を把握して、ものすごいスピードでタンクの弁を交換してくださった。

 

規格品を取り寄せると時間がかかるということで、別メーカーのパーツを加工して取り付けてくださって、全く問題なく生活できるようになった。

 

自分にとって、その水道業者のお父さんは、まさにヒーローだった。

  

誰もが平凡な生活を送っているという状況は、実はとても素晴らしいことで、進撃の巨人風に言えば、様々な危険から守ってくれる壁の中で、たくさんの人たちが平和に生きている。

 

たくさんの人たちが壁の外でみんなを守ってくれている。それが社会なんだと思う。

 

自分は子供の頃からヒーローに憧れて、今でもそういった作品にワクワクするが、実際には地味な人生を送っている。

 

共働きで疲れて、長時間の通勤で疲れて。

 

仕事が終わればヘトヘトで、毎日が大変だ。

 

気を遣うことと言えば、その仕事によって、誰かが助かったり、誰かが亡くなること。

 

必死に助けようとして、助けることができた命。

 

良かった。とにかく良かった。

 

必死に助けようとして、助けることができなかった命。

  

子育て中のお父さんやお母さん、これから育つ子供たち。将来のある若者や、やっと働き終えたシニアの人たち。

 

人生というのは、とても残酷だ。

 

人生というのは、とても不条理だ。

 

彼ら彼女らは生きることを最後まで諦めなかった。

 

しかし、助けられなかった。

 

たくさんの人たちの無念と悲しみが、自分を支えている。

 

自分が諦めたら、救えなかった人たちに申し訳が立たない。

 

独身の頃よりも、妻と結婚して子供たちを授かり、家庭を持った現在の方が、その重さを強く実感する。

 

ご本人やご家族、たくさんの大切な人たちのため、安易なミスは許されない。

  

若い頃には経験やスキルが足りない上に、プレッシャーや怖さを感じていたし、悲しみを前に涙したこともあった。

 

しかし、今では経験を積んで、動じないことが最善の方法だと察したし、涙さえ枯れ果てた。

 

自分を信じてくださった人たちのために、やるべきことをやるだけ。

 

絶対に引けない状況下で頼れるのは、親からもらった個性。

 

頭脳と指先。

 

思春期には「ふざけんなよ!」と両親に反抗して荒れたことがあったけれど、今では感謝したい。

 

「なに格好付けてんだよ」と言われるかもしれないが、勉強ができるとかできないとか、高学歴だとか低学歴だとか、そういった次元ではない話。

 

生きるか死ぬかの瀬戸際で、必死に誰かを助けようとしている状況では、もはや自分を信じるしかない。

 

頭が良いとか悪いとか、そういったことを言っている暇はない。

 

個性を発動させて、集中力を一気に高める。

 

周りから音がなくなり、自分がどうしてここにいるのかさえも意識しなくなる。

  

まばたきを忘れて思考に没頭し、指先が様々な感覚を受けて勝手に動く。

 

この張り詰めた空気がとても好きだ。生きていることを実感する。

 

仕事が終わり気が抜けた途端、脳や心臓にストレスがかかっていて、自分の心身が削れている気がする。

 

しかしながら、誰かを守るために自らの寿命を削るのであれば、それで本望だ。

 

自分が大切にしているのは、生きることの意味。

 

お金を稼いで新興住宅地の一戸建てに住みたいとか、ベンツに乗りたいとか、そういった気持ちは全くない。

 

お金を稼ぐことと、人生の豊かさは必ずしも関係しない。

 

新興住宅地の一戸建てに住んだところで、ベンツに乗ったところで、それは自らの優越感や承認欲求を満たすだけじゃないかと思う時がある。

 

物質的な豊かさへの満足というのは、どこまで行ってもキリがないし、本人が思っているほど周りがすごいと感じているわけでもない。

 

自らが年老いて床に伏した時、人生を振り返って、「俺は一流企業に勤めて、金を稼いで、高級住宅に住んで、ベンツに乗った」と、それで満足できるのだろうか。

 

自分の生涯で何を残すことができたのか、自分は何のために生きたのか、振り返った時には、もう遅い。

 

他方、誰かの幸せのため、誰かを守るために生きたという意義は、本人が思っているよりも大きい。

 

自分としては、我が子たちよりも、生きている間に出会うかどうか分からない孫たちを意識してしまったりする。

 

「僕のじいちゃん、カッコいい!」と言われるようなじいちゃんになりたい。

 

まあ、たった一回の人生なので、それをどう使おうがその人の自由だけれど。

  

ただ、「もしかして、誰かを助けたいとかそういったことではなくて、切羽詰まった状況で自らを追い込んで、自分が生きていることを実感したいだけじゃないのか?」と感じることはある。

 

悩んでいたって始まらない。

 

まさに必死の状況では、実母から受け継がれた頭脳が役に立つ。

 

親戚の中には東京大学の赤門をくぐった人がいるが、その一族の中でも母は色々な意味でキレ者だったそうだ。

 

あまりに頭の回転が速すぎたので、「これでは嫁に行けない」と思った祖父が、あえてアカデミックな場所から引き離したという話を、自分の物心がついた時にはアルコール依存症のようになっていた祖父から聞いたが、その時点で酔っていたので真偽のほどは定かではない。

 

ただ、自分を含めて彼女にディベートを挑んで勝った人を見たことがない。

 

そして、同じくらいに大切な個性。それは、実父から受け継いだ器用な指先。

 

これが中々便利で、ミリ単位の微細な作業も可能になっている。

 

実父は職人の家系で、家系図で確認した限り、どこまでも職人だったりする。

 

この家系には、右利きだけれど、左手も同じように動かすことができる「両利き」の人が多かったようだ。実父も祖父も両利きだったが、生まれ持ってそうなので、たぶんそれが普通だと思い込んでいた感がある。

 

自分が少年だった頃、父が自分の髪を切ってくれたのだけれど、全て左手で器用に髪を切っていた。

 

実父は右手で字を書いていたけれど、精密な作業の時には左手を使っていて、何だか不思議だなと思っていたら、彼ほどではないけれど自分もそうなった。

 

加えて、祖父や実父には職人特有の頑固なこだわりと神経質さがあって、それらも自分に受け継がれている。

 

あるべきところに道具がないと混乱してフラストレーションがたまる。

 

歩くところに物が置いてあるとイライラする。

 

自分が個性を授けられて、順風満帆の人生を歩んできたのかというとそうでもなくて、むしろ、生きることが辛かった。

 

今は生きる意味を知ったけれど、ここまでが長かった。

 

浦安市P連の役員さんたちも感じるように、自分は空気が読めなかったり、考え方や感じ方が変わっていたり、とにかく神経質で理屈っぽいようだ。筋が通っていないと大きな違和感を覚える。

 

そういった性質は集団の中で生きる上で大変だったりする。

 

子供の頃から今に至るまで、たくさんの人たちから、たくさんのイジメ、いや批判的なご意見を頂いた。

 

自分が公立小中学校の教育、そしてPTAという保護者を中心とした組織についてあまり信用していないのは、そういった場がイジメについて真正面から取り組んでいなかったと感じたから。

 

特に、PTAについては信用していない。

 

PTAの会長や副会長の子供たちが学校などでイジメをやっているケースというのは、至る所で耳にする。

 

そのような子供たちの保護者がPTAの代表?

 

昔の話なので今は違うと思うし、日の出小学校の話ではないと思うが、PTAの会長や副会長を担当した保護者の子供たちが、他の子供たちに乱暴な言動をしていないだろうか。

 

思ったよりも同じ学年で噂になるそうだが。子育ての専門家の子供というのは、その理論に基づいて育てられると、どのような育ち方をするのだろう。

 

ギクッとした人たちを置いたまま話を続ける。

 

よく、学校教育の場では、「個性を育む!」とか「個性を伸ばす!」とか、そういったフレーズが認められるが、本当に個性がある子供たちを受け入れるだけの許容性があるのかどうか、自分は分からない。

 

自分の場合には個性が強かったが、小中学校で伸ばしてもらった記憶が全くない。

 

とにかく感覚が過敏で、生きていて辛い。

 

クラスがうるさい。教室の臭いがきつい。

 

そして、学校の授業が暇すぎる。

 

暇で暇で仕方がない。

 

授業中にじっとしているのが苦痛なので、本人なりに色々と考えて、面倒な授業の間はタオルを用意して寝ることにした。

 

体育と図工、もしくは美術や技術の時間を除いて、居眠り。もしくは内職で読書。

 

とにかくクラスがうるさいので、休み時間はできるだけ喧騒を離れて体育館や廊下の隅の人のいないところに。

 

そこに気になる同じクラスの女子生徒がやってきてくれて、二人でのんびりと語らったり。

 

うーん、今から考えると楽しい時期だったのかもしれない。今、どうしているのだろう。フェイスブックで...いや、やめておこう。

 

その後も大変だった。

 

大学生特有の不思議な盛り上がりというか、とにかく講義室がうるさい。

 

自分は思うのだけれど、大学3年生くらいで全国統一の試験を用意して落ちたら留年のような形にして、遊ばずに勉強できるシステムをつくったらどうかと思う。

 

大学のネームバリューだけではなくて、就職試験でその点数を持って企業に向かえばいい。

 

それならばもう少し静かにして勉学に励むと思う。

 

それ以前の話として、自分は電車に乗るとアナウンスの音量が大きすぎて、鼓膜から頭に衝撃を受けて気持ちが悪くなる。

 

電車の中の臭いが気になる。ヘッドホンのカシャカシャ音が気になる。

 

駅のトイレの臭いが強すぎて、用を足す前に吐き気が襲ってくる。

 

新幹線や在来線で、隣に座ったり立っている人の肩や足が自分に触れるだけで、気持ちが悪くなる。

 

中年男性同士で、どうして膝と膝が触れている状態で平気でいられるのか、自分は理解ができない。

 

電車に乗らないようにするためにはどうすればいいか?

 

大学や職場に歩いて通える範囲に住むことだ。

 

妻と結婚して妊娠を機に浦安に引っ越してきて通勤があまりに辛く、本気で東京にアパートを借りて別居しようかと思ったくらい。

 

若い頃には感覚過敏に悩んで、何とかならないかと実際にドクターに診てもらったことさえあった。

 

試しに知能指数(IQ)を測定したら、140くらいの数値が出て、ドクターが驚いていた。

  

当時、「この感覚過敏を治してくれませんか?」とドクターに尋ねたら、彼は気の毒そうな表情で「それは生まれ持ったものです。この症状を病気と判断するための診断基準がありませんし、病気ではない可能性があります。良いところを活かしながら、ずっと抱えて生きていくしかないです」と答えた。

 

今でこそギフテッドといった考えが欧米を中心に広がっているけれど、当時は何らかの発達の障害と誤診されることがあったし、日本の場合には今でもギフテッドと発達障害が混同され続けている。

 

自分は確かに落ち着きがないし、戸締りや火の元が気になると何回も確認しないと気が済まないし、完璧主義や潔癖症の気があってこだわりが強い。

 

ただ、そういった性質は発達障害に限ったことではない。

 

今、自分はそういった神経質さを活かして働いているし、人の役に立っている。

 

ギフテッドと発達障害を混同したり、アウトカムが期待できない不確実な主張を繰り広げている人たちは、海外の英語のサイトを見てきちんと勉強したのだろうか。

 

発達障害を有するギフテッドというケースも少ない割合ではあるが存在していて、2Eと呼ばれるのだけれど、日本ではそのようなケースばかりが前面に出てしまっている印象がある。

 

そのような日本的ギフテッド教育の旗振りをやっているのは、サラリーマンを辞めて独立したような人とか、プロフィール欄が途中からマスクされている人たちが多いようだが、本物のギフテッドを見たことがあるのだろうか。

 

世界全体のギフテッド教育を学んで、きちんと理解した上で日本において広めているのだろうか。何か独特の理論になってしまっているような感がある。発達障害と同義のようにとらえてプログラムまで組んでしまっていたりして驚く。

 

相手が子供なら何とかなるかもしれないが、子供は育って大人になる。

 

もちろんだがギフテッドな子供たちは、その後、大人になって働いている。

 

自分は、保育園児の頃に常用漢字をマスターして、小学一年生の段階で大人が読む新聞や小説を読んでいて、受けた入試をことごとく合格し、修業年限短縮の特例によって、東京大学大学院の博士課程を短縮修了、いわゆる飛び級で修了して、26歳くらいで博士になった。

 

嘘だと思ったら、生年月日が記載された住民票と修了証書を見れば分かる。

 

大学院を短縮修了するためには、研究科でトップクラスの成績を出して、審査に合格する必要がある。

  

ギフテッドと発達障害を混同している人たちは、一度、ギフテッドアダルトと話をしてみればいい。

 

現在、日本のネットユーザーによって根拠が不明確だと思えるアフィリエイトサイトが山のように生まれていて、ギフテッドの本質をとらえているのか分かりかねる団体や自治体があるように感じる。

 

どうしてこのような事態になっているのかというと、やはり、日本国内で統一した基準がないことが原因なのだと思う。

 

公的機関もしくは関連学会がガイドラインを立ち上げる段階なんじゃないかと思う。

 

それはともかく、当時は、少し絶望的になりながらも、「まあ、仕方がないかな」と思った。

 

ただ、そのドクターは言った。

 

「今は、あなたのような人たちが苦しんでいますが、欧米では個性として育てようという取り組みが始まっています。おそらく、あなたの子供が育つ頃には、日本でもガイドラインが整備されて、きっと大丈夫ですよ」と。

 

あれから長い月日が流れ、子供たちが小学校に通う時期が来た。確かに欧米の教育はさらに充実した。しかし、日本は...

 

ガイドラインが出来てない。

 

保護者本人がギフテッドならともかく、そうでない場合には保護者も教育関係者も情報源がないと困ってしまう。

  

とはいえ、生まれたからには、一生懸命に生きるしかない。

 

自分が色々なことを考えて、自分で決めて、ここまでやってきたのかというとそうでもない。

 

むしろ水先案内人のように「おーい! こっちだよ!」と引っ張ってくださった師や友のアドバイスを受けながら、気が付くと今の場所にいた。

 

本当に死にそうになったことがあって、真っ暗闇の絶望の淵から、たくさんの人たちに引き上げて頂いた。

 

今、頑張っていられるのは、恩返し。死ぬまで返すことができないけれど。

 

なので、自分の生き方や能力を誇ることはできないが、今まで引っ張ってくださった方々を大いに誇りたい。

 

彼らには今でも足を向けて眠ることができないし、感謝し続けながら生きている。

 

さて、本題に入ろう。

 

新町から見て浦安市内の陸橋の向こう側は、どうなのか分からない。

 

新町から見て旧堤防を隔てた中町は、どうなのか分からない。

 

都内の知識層では普通に話されていることで、新町の保護者も知っている人が多いかもしれないが、近い将来、大学入試において大きな変化がやってくる。

 

国公立大学を中心とした入学試験において第一関門になるセンター試験が廃止され、新しい入試制度が導入されるという話だ。

 

大学入試が変わるということが何を意味するか。

 

進学校について言えば、そういった変化に対応できる子供たちを選抜するため、中学校や高校の入試の内容も変わる可能性があるということだ。

 

実際に開成中学のようなトップ校で入試の形が変わり始めているそうだ。他の進学校が追随することが予想される。

 

自分は、入学試験の張り詰めた空気や厳しい競争が好きで、高校から大学、大学院、就職まで、全ての試験において落ちたことがない。受けた試験を全て合格してきた。

 

自分の優秀さをアピールしたいわけではなくて、そういった勝負とか、試験といった類が楽しくてたまらない。

 

なにせ、頑張ったら頑張った分だけスキルがアップする。

 

人生、生きていれば頑張っても仕方がないことがたくさんある。しかし、入学試験の場合には努力が成績に繋がる可能性が高い。

 

しかも、そこで頑張ったことで人生のトラックすら決まることが多い。

 

ふむふむと思っていたところ、自分の家庭を見渡すと、妻が毎日のようにイライラして疲れている。

 

自分の子供たちは自分に似て個性的なので、真人間な妻から見ると奇想天外な言動が出てきたりする。

 

自分としては妻の手前「こらっ、きちんとしなさい!」と子供たちを叱るのだけれど、「自分が子供だった頃と同じだよ!」と驚いたり、子供たちが可愛くて仕方がなかったりする。

 

そして、自分がここまで生きてきて、どうして生きづらかったのかという理由が分かった。

 

子育てというのは、子供たちを通して自分の生い立ちを振り返り、自分を見つめ直すための旅なのかもしれない。

 

自分が変わっているのは、おそらく個性が強すぎるからだと思うわけだけれど、その個性というのは、大切な生きる力でもある。

 

しかし、子供たちを観察している限り、自分の個性というのは一つではなくて、複数の個性が同居しているのではないかと。それらの個性が葛藤してしまって、自分を保つことが大変だったのではないかと。

 

子供たちはそれら全てをそのまま受け継ぐことなく、適度に分け合って、バランスを取りながら個性を発現している。

 

自分が生きてきたよりも分かりやすくて、楽かもしれないと思った。

 

とはいえ、妻としては個性がある子供たちの子育てに疲労困憊なので、そろそろ夫として意見を述べねばと思った。

 

「少し早いけれど、学習塾に入れよう!!」

 

上の子供の性格は、自分によく似ているけれど攻撃性がない。しかし、もっと深い知識欲というか、探求心が旺盛だ。

 

色々なことに気づいて、とかく妻に質問する。

 

沼のような知識欲は留まるところを知らない。何もかも飲み込んでしまうような迫力さえある。

 

そういった人を知っている。確か、電球を発明した人だ。

 

もはや、自宅学習では妻がエキゾーストしてしまうので、プロにお願いしようと思った。

 

将来、どこの大学を狙うとか、どのような職業になりたいとか、そういった話の前に、今、やることは何かを考えた。

 

都内ではすでに私立の幼稚園や小学校に通わせている保護者がいる。

 

そういったことにどれくらいの意味があるのか分からない。

 

しかし、中学入試というのは思ったよりも重要なトラックになる気がした。

 

ガリ勉とか、詰込み教育とか、色々なことが言われたこともあったが、今、中学入試の問題を解いてみれば分かる。

 

知識を詰め込むというよりも、頭の回転を試したり、文章の読解力を試すような問題が非常に多い。

 

このような試験で選抜される人たちというのは、どういった人たちなのか。

 

将来、AIの発達によってたくさんの職がなくなると言われているが、AIに使われることなく、AIすら使いこなすような人材だと思う。

 

我が子がどれだけ伸びるのか楽しみであり、確実な自信はないけれど、親は子を信じるのみ。

 

妻が疲れるくらいの明らかな個性が現れているのだから、そのまま伸ばしたいなと思った。

 

それが、将来の生きる力になると思う。

 

とりあえず、目の前にあるのは中学入試だ。

 

このまま日の出中学校に進んでも構わないが、学力レベルが高くて内申点が高いらしい。

 

それは地域にとって誇れることではあるけれど、高校入試の時には他の中学校よりも調整点が引かれて不利になるそうだ。

 

なんだそれは?

 

千葉県の教育委員会や浦安市の教育委員会、P連は何をやっているのだろうと思ったけれど、彼らにも都合があるし、対応を待つよりも自分の世帯で何とかせねば。

 

すると、市立小学校から私立中高一貫へのトラックになる。

 

共働きでは自宅学習を続けることが厳しい。

 

そうなると、さらに学習量を増やすには塾が必要になる。受験のノウハウや分析も長けていることだろう。

 

では、どのような塾が適しているのか?

 

山に登る時には、その山に登ったことがある人に尋ねると手っ取り早い。

 

その辺の人脈は、妻よりも広い。

 

そこで、母校のOBや、お子さんが国公立の医学部に合格した保護者の人たちに、「あの、すみません。おすすめの塾はありませんか?」と尋ねてまわることにした。

 

別に、自分の子供たちを東大や医学部に合格させたいと思っているわけではなくて、色々な情報を集めるためには、難関を突破した人たちに話を聞くのが一番だと思ったから。

 

何事も真面目に働いていると、良いことがある。

 

たくさんの人たちからアドバイスが届いた。

 

苦労して得た情報をネットで紹介するほど、自分はお人好しではないので、途中を省略する。

 

どうやら、塾によって中学入試の合格率が違うようだ。

 

しかも、どれくらいのランクの学校をターゲットにしているか、また子供がどのような性格なのかによっても、塾の選択が変わってくるようだ。

 

なるほど、そうなのか。

 

自分が経験した時よりも状況が変わっているようだ。

 

学習塾の説明会に行ってみた。

 

なるほど、そうか、そうなのか。

 

何だかドキドキした。

 

「よしっ、やるぞー!」と盛り上がった。

 

自分のことではなくて、自分の子供のことだと素に戻って、何だか恥ずかしくなった。

 

説明会が終わってから、講師役の先生の近くに行って、たくさんの質問を投げかけてみた。

 

やはりそうか。

 

今の受験情勢は、この段階にまで来てしまっているのか。

 

厳しい状況だが、うちの子供たちは生き抜かざるをえないぞ。

 

自分が入試を経験した時代は、個人の能力で何とかなった感があるが、現在では受験産業が発展して、必ずしも子供だけの競争にならない時代がやってきたように感じた。

 

大人が介入するのはどうなのかと思うが、それがまかり通るのであれば、うちの子供たちにもサポートを付けて対抗する。

 

人生というのは公平であるべきだと思うけれど、同時に残酷だと思う時がある。

 

自分が子供だった頃は、田舎過ぎて塾がほとんどなかったし、自分の実家は借金を抱えた自営業だったので、塾に通う余裕がなかった。

 

自分が「母さん、塾に通いたいんだけれど...」と実母に相談した時、「ああ?」と聞き返された時の記憶は今でも頭に残っている。

 

子供が勉強したいと言った時に背中を押すのが親だと思ったけれど、生活のためには仕方がない。

   

大学入試を目前にした自分は、稼業の店番を手伝いながらレジに座り、センター試験の問題集を解いていたことがあって、店内にホタルの光が流れ始めたら後片付け。

  

こんな状況で全国の猛者と戦わなくはいけないのかと悔しい気持ちなった。

 

我が子に同じ辛さを味合わせたくないと思って、ここまでやってきた。

 

我が子はそういった苦労を知らずに育っているけれど、それは本人が頑張ったからではない。

 

自分の学習環境が当たり前だと思わず、サポートしてくれた祖父母や両親に感謝すること。

 

そして、恵まれた環境にいることを少しでも理解したなら、将来、恵まれない環境にいる人たちを助けることの大切さを教えたい。

 

今はその一歩だ。

 

ようやく、そのステージに来た。

 

しかしながら、妻は個性ある子供たちの子育てで疲れて気が張っているので、どうやって説明しようか。

 

以前、友人と一緒に母校までサイクリングに行った時のことを思い出した。

 

彼は保育士で自分より一回り以上若いけれど、自分と同じように保育園児を育てていて、立派に働いて家族を養っている。

 

「安田講堂って、思ったよりも小さいんですね...」とつぶやいた彼の姿がとても印象的だった。

 

確かにそうだと思う。

 

社会というのは不思議なものだ。このような価値観に左右されるなんて。

 

世の中には大学に行かなくても立派に働いている人たちはたくさんいる。

 

一方、いわゆるFランクと呼ばれ、偏差値30台の大学に通ってでも大卒の肩書を取りたい若者もいる。

 

Fランクの大学を出た人がFランクの人間であるはずもなく、Fランクの人生が待っているわけでもない。

 

幸せか不幸せかなんて、学歴で左右されることではないと思う。

 

ただ、高い山に登ることでしか眺めることができない景色がある。

 

迷っていても始まらない。

 

妻なら分かってくれるはず。

 

塾の説明会が終わって、妻に「よし、うちの子供を塾に入れよう!」と提案した。

 

「え!? 今から!?」と妻は戸惑っていたけれど、自分には一切の迷いはない。

 

自分によく似た我が子は、目がキラキラしている。

 

そう、その表情が大切だ。

 

入塾試験を軽々とパスしてきた。

 

さすが我が子だ。

 

色々な問題を解いて、正解した時に頭に浮かぶ、「ヨシッ!」という満足感。それが大切だ。

 

実際に仕事に就くと、それだけでは済まされない厳しさがある。

 

しかし、実際に自分の能力によって誰かを助けることができると、試験以上に素晴らしい満足感があるぞ。

 

大人になれば、頑張っても結果に結びつかないことはあるけれど、今は結果に繋がる。

 

将来、どのような職に就くのかは分からないけれど、そのチャンスを得るためには、その場に行こう。

 

妻としては、色々な気持ちがあるのかもしれないが、山に登る時には、その山を登ったことがある人に尋ねることが一番手っ取り早い。

 

妻よ。

 

共働きの毎日の中、迷惑をかけてばかりで申し訳ない。

 

個性ある子供たちを育ててくれてありがとう。

 

受験に関しては、夫の提案を受け入れてほしい。

 

当面は、ロードバイクに使っている小遣いを節約することから始めよう。

 

ロードバイクに金をかけても大して身にならないが、子供に金をかける分には結果が出なくても納得できる。

 

我が子よ。

 

父ちゃん、 頑張るから、思いっきりやれ。